真田幸村は豊臣家と徳川家康との幾度の戦いで活躍したことでもよく知られているテレビの大河ドラマにも取り上げられる人気の戦国武将ですが、実はあまり有名ではありませんが、幸村の父である真田昌幸も相当な名将だったことはご存知でしょうか。
今日はその真田昌幸に関するエピソードをお話しします。 |
真田昌幸は1547年に真田幸隆(幸綱)の3男として生まれ1611年に死去しています。 昌幸は真田の嫡男ではありませんでしたので幼少の頃は武田信玄の小姓として使えていましたが、兄達が戦死してしまったため真田の名を継ぎました。武田家滅亡後には地方の小大名として独立しています。 独立した真田昌幸の兵は僅かでした。しかし、その寡兵を持って上杉謙信や徳川家康の大軍を退けたという実績があります。昌幸は綿密な戦術を練り、地の利を生かした川による水攻めや、敵軍を引き込んでの火攻めを展開するのが得意だったと言われています。 その一方で政治的にも才能を発揮したとも言われています。武田の仇敵であり、自信も数回に渡り戦を交えた上杉氏と和睦、徳川の上田攻めの際には援軍を得ました。その徳川家とも息子の政略結婚により縁を結び、同じように豊臣家とも縁を結びます。 関ヶ原の際には豊臣方に付き、徳川の大軍を信濃にて、寡兵と謀をもって足止めしました。城を明け渡すような風を装いながら、交渉を長引かせ、痺れを切らせて攻め込んでくると、用意しておいた戦術を駆使して撃退しました。 真田昌幸は知将、謀将として天下に名を轟かせていたのです。 |