戦国時代の武将、真田幸村。 幸村はゲームや漫画で若い方にも人気があるので多くの方はご存知だと思います。 真田幸村と言えば大阪夏の陣では豊臣方の武将として出陣し、敵大将の徳川家康に2度も肉薄した知将です。その鬼神のような戦振りは「真田日本一の兵」と後世に語り継がれました。 そんな真田幸村ですが、実はこの名前は後世になってから付けられたものであり、本名は全く違うことはご存知でしょうか? |
真田幸村の本当の名前は真田信繁と言います。幸村と言う名前とは全然違うので驚いた方も多い事でしょう。「信繁」と名付けられた由縁からお話しましょう。
真田信繁(幸村)の祖父である真田幸隆は武田信玄に仕えていて、武田24将のうちの一人に数えられる名将でした。幸隆の子にして信繁の父にあたる真田昌幸は、幼い頃から武田信玄の側に仕えていました。 武田信玄の弟、武田信繁は信玄のために尽力し、副将として当時から絶賛されていました。「典厩信繁」の通り名で親しまれ、武人の鑑として敬われていたほどの武将です。 実は真田昌幸はその武田信繁にあやかり、息子に「信繁」と名付けたのです。 ではその信繁がどうして幸村になったのかと言いますと、字は「幸村」の名は講談の中で使われたものなのです。真田の通字である「幸」から、講談師が付けたものなのです。ちなみに講談とは600年前に始まった芸能です。 講談の始まりは一説によれば、いくさでケガをした武士たちが戦場での出来事を話しまわっているうちに、それが講談になったのが始まりだとされています。落語に似ていますがお笑いではなくあくまでストーリー重視です。 天下人の家康に刃向かった真田幸村の講談は、江戸時代以降、非常に人気がありました。その人気から、いつの間にか「真田幸村」が実名のように広まっていったのです。 |